2016年08月06日

伊東 忠太

 わが輩の名は伊東忠太であつて、忠太伊東ではない。苗字と名とを連接した伊東忠太といふ一つの固有名を二つに切斷して、これを逆列するといふ無法なことはない筈である。
 個人の固有名は神聖なもので、それ/″\深い因縁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。
 然るに今日一般にこの轉倒逆列を用ゐて怪しまぬのは、畢竟歐米文明渡來の際、何事も歐米の風習に模倣することを理想とした時代に、何人かゞ斯かる惡例を作つたのが遂に一つの慣例となつたのであらう。
 今更これを改めて苗字を先にし名を後にするにも及ばない。餘計な事であるといふ人もあるが、わが輩はさうは思はない。過ちて改むるに憚るなかれとは先哲の名訓である。
 况んや若しも歐米流に姓名を轉倒するときは、こゝに覿面に起る難問がある。それは過去の歴史的人物を呼ぶ時に如何にするかといふ事である。


 近頃時々我輩に建築の本義は何であるかなどゝ云ふ六ヶ敷い質問を提出して我輩を困らせる人がある。これは近時建築に對する世人の態度が極めて眞面目になり、徹底的に建築の根本義を解決し、夫れから出發して建築を起さうと云ふ考へから出たことで、この點に向つては我輩は衷心歡喜を禁じ得ぬのである。
 去りながらこの問題は實は哲學の領分に屬するもので、容易に解決されぬ性質のものである。古來幾多の建築家や、思想家や、學者や、藝術家や、各方面の人がこの問題に就て考へた樣であるが、未だ曾て具體的徹底的な定説が確立されたことを聞かぬ。恐らくは今後も、永久に、定論が成立し得ぬと思ふ。若しも、建築の根本義が解決されなければ、眞正の建築が出來ないならば、世間の殆んど總ての建築は悉く眞正の建築でないことになるが、實際に於ては必しも爾く苛酷なるものではない。勿論この問題は專門家に由て飽迄も研究されねばならぬのであるが。我輩は、茲には深い哲學的議論には立ち入らないで、極めて通俗的に之に關する感想の一端を述べて見よう。

 近來世界の文運が急激に進展したのと、國際的交渉が忙しくなつたのとで、わが國においても舊來の言語だけでは間に合はなくなつた。
 殊に新しい專門的術語はおほくは日本化することが困難でもあり、また不可能なのもあるので便宜上外語をそのまゝ日本語として使用してゐるのが澤山あるが、勿論これは當然のことで、少しも差支はないのである。
 併しながら、永くわが國に慣用された歴史のある我國語は、充分にこれを尊重せねばならぬ。
 國語は國民思想の交換、聯絡、結合の機關で、國民の神聖なる徽章でもあり、至寶でもある。
 不足な點は適當に外語を以て補充するのは差し支へないが、ゆゑなく舊來の成語を捨てゝ外國語を濫用するのは、即ち自らおのれを侮辱するもので、以ての外の妄擧である。なかんづく一國民の有する固有名は最も神聖なもので、妄りに他から侵されてはならぬ。
posted by 787689787 at 15:37| テスト